微雅
第三章〜冥〜
第八話
崩れ落ちる身体と流れ出る血流れの映像が頭の中に飛び込んできた。
俊果はすぐに物体となり、恋は動かなくなったそれから溢れ出る血を見て目をそっと閉じた。
「ごめん、ごめんね俊果」
謝罪の言葉を発しながら、俊果の気持ちにぎりぎりまで気づいて上げられなかった自分を責める。
静寂につつまれた書室で動くものは赤い液体だけ。
だが恋は突然背後に人の気配を感じた。
あわてて振り向くとそこには冥の姿。
暗がりの中、冥の笑った気配を感じた。
「……終ったようですね。お疲れ様です、朱臣 恋。では、正式にあなたを刑執と認めましょう」
どこか楽しそうに言われる台詞をただ黙って聞く。
冥は、俊果の死体などさして興味もないように平然と恋を横切り、広がる血液を踏み越えた。
そしてこれからの処理などを淡々と一通り説明すると、急に思い出したかのように付け足す。
「ああ、あとこれから精霊関係の処刑はあなたにやってもらうことにしたので」
そのつもりで、とまたどこか楽しげに笑う。
驚きのあまり恋は息をつまらせた。
「どうして」
恋の戸惑ったような声が書室に響いた後、冥の気配が突然変わった。
そして少し低い声で言う。
「無駄な事を聞くんですね。理由などとうに分かっているでしょう?」
細められた目に、恋は身動きが取れない。
冥は少し笑って扉の方に足を向けた。
そしてあと少しで出ようかという時振り向かないまま立ち止まる。
「朱臣 恋、刑執として活躍される事期待していますよ」
冥の声も気配ももう元に戻っていた。
冥の姿が見えなくなり、また静寂だけが書室を包み込む。
恋はしばらく立ち尽くしていたが、ゆっくりと中央に足を進めた。
禁時、それは本来刑執以外の者は活動を許されない時間。
いや正確には部屋を出る事を許されていないだけではある、だが微雅のほとんどの者は翌日の修練に備え睡眠をとる。
その禁時の最中、涼卦は自室で机に向かっていた。
服は式服のまま、灯を明々とともし昼とあまり変わらない光景。
が、突然ずっと動かされていた資料を持つ手が止まった。
部屋の外に人の気配、むろん刑執以外の何者でもない。
人の気配がすっと部屋の前を通り過ぎるのを確認すると、涼卦は立ち上がって戸の正面に立ち、そのままそこに座った。
そして目を閉じじっと来客者が声をかけるて来るのを待つ。
来客者、利緒は涼卦がいつものように戸のまえで座っているのを確認すると、刑執のみが知る通路を通って個室に入った。
そして振り向いても良いという合図に声をかける。
「お疲れ様です、涼卦」
涼卦は立ち上がってゆっくりと振り返り、一礼した。
「散桜様、ご足労ありがとうございます」
そのまま二人は机をはさんで座る。
散桜 利緒、元官位:越権。
利緒もまた涼卦と同様、官位を引退して刑執に入る前から冥に仕えている。
刑執はその事を知らない。
そして、恋はそのこと、利緒が冥に仕えていることを知っていた。
恋は刑執に入る以前に、冥の使いとして動く利緒と接触している。
恋が初めて刑執の利緒に会ったときの驚きは、このためだ。
「冥はどうされました」
書類を利緒に渡しながら問う。
利緒はにこりと笑って口を開いた。
「恋の監視でもしているのでしょう」
おだやかな外見は変わらないが、少し強気そうな口調で返す。
その答えを聞いて、涼卦の目が細められる。
「恋が心配ですか? 妹のように慕っておられるようですからね」
「いいえ、心配など……では昼の恋の行動を報告します。私との対話は態度、言動共に特に変わりありませんでした。刑執の情報を守るための配慮は十分と言えましょう。処刑前の調査も刑執として最低限のことは出来ているようです」
「そうですか」
利緒は涼卦に軽く笑いかけ、また涼卦に戸の方を向いて座るよう促す。
刑執の通路を刑執以外のものに知られるわけにはいかないからだ。
涼卦は黙って促されるままに戸の正面に移動した。
が、利緒が部屋を出ようとした時突然言う。
「散桜様、私は朱臣 恋が微雅を裏切るとは思えません」
利緒は少し驚いたようにしていたが、にこりと笑って返す。
「それは私も同じですよ」