微雅
第二章〜刑執〜
第八話
一瞬頭の中が真っ白になった。
反射的に地面を蹴って横に倒れこむ。
ガッという音を立てて男の刀が、つい先ほどまで恋が立っていた場所に突き刺さった。
恋はそのまま倒れていたい衝動を押さえ込んで立ち上がり、すぐに男の方を向いた。
心臓の音がうるさい。
男はゆっくりと刀を抜き、頭だけ恋の方へ向ける。
と、恋の目に熱いものが流れ込んで視界がぼやけた。
手をやるとぬめっとした感覚がある。
目の上と足を少し切られてしまったようだ。
視界の悪い時に攻められてはどうなるかわからない。
恋は男の様子をじっと窺い、ゆっくりと後方へ下がった。
男は、息が荒く肩を上下に揺らす恋を見たまま動く気配はない。
恋は不思議に思って男をじっと見つける。
さきほどぬぐったばかりの目の上からの血がまた溢れて視界を覆う。
恋はそれを再度ぬぐった。
そして恋はようやく、布で覆われているはずの顔に今直接触れていることに気づいた。
(もしかして私、顔の布ついてない……?)
立っている男の足元を見れば、刑執の顔を覆う布が落ちていた。
鈴火から極囚に顔を見られるのは問題ないとは聞いていたので、恋は気にしないでいようと男の方を見る。
いつの間にか厚い雲は流れ、月明かりが二人の立つ心央を照らしている。
男の動きが全くないので、恋は男の表情を窺おうと目を細めた。
(……えっ?)
男の顔には驚愕の色が窺え、目は見開かれている。
焦った顔は恋が想像していたよりずっと理知的でとても凶悪犯には見えない。
男は恋が男の表情を見ていたことに気づいたのか、かぶりを振って再び鋭い視線を恋に向けた。
恋は、その視線に先ほどまでとは違う怒りが含まれているように感じた。
「・・・ったく。何やってんだあいつは」
恋が戦っている心央から少し離れた高い屋根の上。
執行長焔李(は楽しそうに恋の戦いを眺めている。
恋が一人で見回りをしているところへ極囚の男を差し向けたのは焔李。
利緒を呼び戻して恋を一人にし、男をなるべく自然な形で牢から逃がした。
男が牢を出て最初に向かうであろう場所は見当がついていたので、男の向かう方向に恋を向かわせれば鉢合わせるのは簡単だ。
藍卯から報告を受けた男が刃物を所持しているということも焔李にとっては好都合だった。
なぜなら、焔李の目的の一つは恋に本気で戦わせる事だったからだ。
恋の普段の勉強や訓練の内容を見る限り、焔李にはどうしても恋が本気で死舞や戦を戦っているようには思えなかった。
焔李が注目しているのは恋が毎回の死舞で見せる、殺されそうになった時または大怪我を負っている時の、
相手の隙を一瞬で突くその瞬発力。
しかしそれはこのような緊急時以外は全く見られない。
男のような強さの者が相手であれば、恋の一発で勝負が決まることもないのでじっくりと恋の実力を見ることが出来る。
そして焔李のもう一つの目的は刑執の強さを恋に分からせる事。
実際に『凶悪犯』と戦えば、それを捕らえた刑執の現在の強さと、これから恋がどれほど強くなる必要があるかを手っ取り早く分からせる事が出来る。
焔李は必死に男の攻撃をかわす恋をおもしろそうに見ている。
「へー結構頑張ってるんだな。でも……なんかたりねぇな」
焔李は屋根の上に身をしのばせる男を冷ややかな目で見つめた。
男のことについては細部まで調べ上げられ、全て焔李の頭の中に入っている。
男は官位にはいっており、罪状は恋に知らせたとおり官位殺しで、被害者は男とよく仕事を共にしていた二人。
動機はある秘密をその二人に知られた事。
男は官位として理知的で焔李から見ても優秀だったが、その秘密を知られた事によりあるかばあっていた者の罪が刑執にまで伝わることを恐れたのだろう。
二人は執務室で完全に息の根が止まるよう体を切りつけられ、首も落とされていた。
もちろん、焔李は男がかばっていた者は見つけ出し必ず処罰するつもりだ。
焔李が眺めている中、男は屋根の下まで来た恋を上から飛び降りながら切りつけた。
恋が反射的に横に倒れこむ。
焔李はそれを見て満足げに笑った。
が、すぐにつまらなそうな顔になった。
「ちっもう終りか」
焔李の目には、顔の布を取られた恋の姿が映っていた。
男の射抜くような視線に、恋は背筋が凍った。
男が一歩踏み出した一瞬後、恋の体にどんと衝撃が走った。
すぐ目の前には少し辛そうな顔の男が、男の手には刀がある。
一瞬の出来事に、恋は身動きがとれない。
男の持つ刀が動いた。
(殺される!)
恋がそう思った瞬間。
風を切る音と共に頭上を黒い影が通った。
恋はそそまま後ろに倒れた。
男の姿は視界から消えている。
すぐに起き上がって黒い影の正体と男の行方を捜した。
「ったく危ねぇな」
「なっ焔李!?」
恋の目の前には焔李の姿。
そして、男は焔李の足の下にうつ伏して倒れている。
男の刀は男の手の届かない程度のところに突き刺さっていた。
焔李は恋に構わず男に話し掛ける。
「おい、本当に話す気はないのか。話すって言うんなら助けてやってもいいぜ?」
男は苦しそうにしながらも、鋭い目を向けて口を開く。
「全く助ける気などないくせにそのようなことを。お前らに言う事など何もない」
焔李は男の刀を静かに手にとった。
男はそれに反応して身を硬くして目を閉じた。
焔李は男から視線をはずさないまま恋に話し掛ける。
「恋、よく見ておけ。これが刑執の仕事だ」
恋の見ている前で、焔李の持つ刀が男に振り下ろされた。
「焔李、あの人に話させようとしてたことって何?」
男の死体を処分し中央に帰る途中、押し黙ったままだった恋が唐突に口を開いた。
焔李は恋の前を真っ直ぐ向いたまま歩いている。
「……ああ。恋に教えた官位殺しのほかに、奴は一級犯罪も犯していた。
そしておそらく奴は同じ一級犯罪を犯している何者かをかばっていた。
今回殺された二人の官位にそれがばれたんだろう。
自分が殺したことを隠さなかったことから、奴がそのある者を隠す為だけに二人を殺した事も想像がつく」
「で、その一級犯罪って何なの?」
恋が耐え切れずに聞くと、焔李は恋のほうをちらと見た。
「……恋も知っているだろう。生まれたこと、生きている事がそれだけで罪」
「あの人精霊の力を!?」
「そうだ」
恋は息を詰まらせ視点を迷わせた。
微雅には生きることを許されない者がいる。
それは精霊の力を持っている者。
生まれてすぐに精霊の力を持っているかの検査があり、それと分かればすぐにその者は殺される。
だが検査といっても、本人に精霊が見えているかと聞くだけで、この検査をくぐり抜ける者は何人もいる。
そのくぐりぬて微雅に今も潜んでいる者を探し出し処刑するのも刑執の仕事だ。
もちろん、その者たちは特別犯罪を犯したわけではないのだから、刑執にとっても辛い仕事ではある。
その上、精霊の力を持つものを殺さねばならないはっきりとした理由も示されていないのだから、本人達を納得させる事も難しい。
ただ、精霊の力は微雅にとって未知のものだからっという理屈をつけるしかない。
恋と焔李は押し黙ったまま中央へと帰っていった。