「はぁ……」
朝儀が終り、部屋に戻った恋(レン)はまだ片付けていない布団の上に座り込んでため息をついた。
もう十日間まともに誰とも話をしていない。
原因は分かっている。
恋が普段安心して話せる相手は抄基(ショウキ)と樟静(ショウセイ)だけ、その二人両方の姿が見えないのだ。
抄基は歳長としての仕事で上に呼び出されたまま。
樟静は呼んでも他の用事・・・おそらくは官位からの任により呼び出すことが出来ないと下人に伝えられた。
こうなると恋は修練があるにしても、暇でしょうがない。
布団の上に寝そべってパラパラと本をめくってすぐに閉じた。
そして外へ出ようと戸を開けた。
すると目の前には十日間姿を見せなかった人物。
「啓魄(ケイハク)!仕事は終ったの?」
恋がいつものように明るく話し掛けた。
なにせ十日ぶりの会話がようやく出来るのだ。
しかし抄基は暗い顔で黙ったまま恋を冷たい目で見つめているだけで返答の様子はない。
恋は抄基のいつもと違う様子に不安を覚えた。
「……大丈夫?」
もう一度問い掛けると、抄基は恋からすっと冷たい視線を一度はずした。
そして、もう一度視線を戻し、
「朱臣 恋(スオミ レン)、私の後についてきなさい」
と。
拒否を許さないというように言う抄基。
恋はこの言葉を聞いてようやく抄基が仕事で訪ねてきたのだと理解した。
抄基が戸から離れたので恋は急いで外へ出て戸を閉めた。
そして同意の視線を抄基に向ける。
抄基はそれを確認するとさっさと歩きだした。
恋もそれに静かについて行く。
しばらく歩くと遠くに白い建物が見え出した。
それは紛れも無く、恋が刑執に連れてこられた建物。
そのまわりにたくさんの牢など、犯罪者等を収容する設備があることを恋は知っていた。
今まで部屋の近くのものには何度か隔離のため入れられたことがあったがこのような本格的なことろへ入れられたことはない。
抄基は一度も振り返らず黙々と歩いてゆく。
そして唐突に高い塀に囲まれた細い横道に入っていく。
何度も曲がって方向感覚がなくなってきた頃、前方に大きな建物が見えた。
入り口まで着くと、抄基は戸を開けて中に入るように促した。
恋がおそるおそるはいるとすぐに戸は閉められ、後方で鍵が閉められる音がした。
振り返ると、戸を挟んだ外側に抄基の影が見えたがすぐにそれも消えてしまった。
建物の中は静かで自分の歩く音がやけに大きく聞こえる。
「恋さん!」
とつぜん背後から絶叫に近い声が聞こえた。
聞きなれた声に恋は驚いて振り向いた。
そこには少し潤んだ瞳の樟静がいた。
「何故恋さんがここへ……?」
少し唇を震わせながらの言葉は消えそうで、それは目の前の恋を否定したいかのように聞こえた。
恋が言葉につまっていると、後方で扉が閉まるような音がした。
樟静はその音にビクリと肩を振るわせる。
足音が聞こえてきたので振り返るとそこには抄基。
抄基はすっと恋と樟静を通り過ぎ、広い廊下の奥へと進んでいった。
そしてしばらくいくと振り返り、ついてくるようにと促した。
恋は腕を掴んで放そうとしない樟静の手を優しく解いて、抄基について行った。
恋にはまだ、自分がどうしてこのようなところに連れてこられたのか分からなかったが、ただ漠然と嫌な予感がしていた。
恐れていたことがおころうとしていた。
抄基のあとを歩いていくと、突き当たりに大きな扉が現れた。
抄基は扉の片方を開き、振り向いた。
無表情の顔の向こうに冷たい鉄格子が見える。
(ここに……入れというの?)
恋が抄基をじっと見ていると、抄基は辛そうな顔を一瞬見せた。
たが、抄基の口から出たのは
「圭 樟静、入りなさい」
樟静の名。
驚いて恋が振り向くと、少し離れた距離に樟静がついてきていた。
樟静は少し寂しそうな顔をすると、それを振り払うかのように首を振り、いつもの凛とした顔つきになった。
背筋を伸ばし、真っ直ぐ、真っ直ぐ扉の方へと向かう。
そして恋に程近いところまでくると、一度足を止め軽く笑って言った。
「私のことは、どうかお気になさらないで下さい。
恋さんの好きなようにされればそれで良いのです」
そして一度にこりと笑うと、扉の中へ消えていった。
訳がわからず立ち尽くす恋をよそに、抄基も樟静に続いて扉の向こうに消える。
そしてガシャンという音の数秒後、また恋の前に姿を表した。
抄基は扉から出ると、静かにそれを閉めた。
パタン
ごく小さな音だったが、その音は恋の心で何かをはじけさせた。
「啓魄! どういうことなの? 説明して!」
静かだった建物に恋の叫び声が響く。
抄基はたいして驚く事も無く、無表情のまま恋の腕を強く掴んだ。
そして引きずられるようにもと来た廊下を戻る。
「何なの、どうして樟静があんな所に閉じ込められないといけないの? 啓魄!」
恋の言葉に全く反応していなかった抄基の足が突然止まる。
「ねぇ、これは歳長の仕事なの? 何とか言っ「お前のせいだぞ」
言うと同時に、抄基は突然恋を乱暴に壁に叩きつけた。
突然の衝撃。
突然の低い声。
目の前に見える、瞳。
心臓の鼓動が、速くなる。
「……私のせい?」
何とか絞りだし問うと、抄基は表情をふっとやわらげた。
そして、少し辛そうに
「罪人は罪人らしくしていろ」
と言って恋から離れた。
恋が体勢を立て直すと、抄基は何も無かったかのようにさっさと歩き出した。
恋は慌ててついて行く。
広く長い廊下をしばらく真っ直ぐ進み、また唐突に横の細い道に入った。
その道は暗く、目の前にいる抄基を捉えることさえ難しい。
その上抄基は足音無く歩いているので、恋は急に立ち止まった抄基にそのままぶつかってしまった。
抄基の気配が振り向く。
「あっごめんなさい……」
慌てて謝る。
「……に」
「えっ何?」
抄基が何か言ったのはわかったが、あまりに小さく聞き取れなかったので問い返す。
すると突然抄基の手で口を塞がれた。
突然のことに驚いたが、大人しくしていると抄基が再び口を開いた。
「……静かに」
抄基は恋の口を塞いだまま壁にもたれかかり、周囲を気にしている。
恋がそのままじっとしていると、ややあって抄基がごく小さい声で話し始めた。
「……恋。お前自分がどうしてこんなことになったか分かるか?」
そして恋の口を覆っていた手の力をふっと抜いた。
恋は抄基がいつもの口調に戻っていたので少し安心した。
そして少し間をおいて応える。
「……分からない」
「出来れば即答してもらいたかったな」
抄基が苛立ち気味に呟いたが、怒っているわけではないことを知っていたので黙っている。
「本当に心当たり無いんだな?」
問われて恋は記憶をめぐらせる。
以前騒動の時に相手に怪我をさせたことだろうか、それとも先日資料室に閉じ込められた時のことか。
それともずっと最下位の者を処分することにでもなったのだろうか。
それとも……と考えて恋は苦笑する。
心当たりといわれても、それがありすぎるから困る。
しかし、樟静も閉じ込められたという事を考えてもういちどめぐらせてみる。
心当たりを聞いてから返答が無い恋に、抄基は不思議に思ってもう一度声をかけようと口を開く。
が、それは恋の大きなため息によってさえぎられた。
「……啓魄」
「何だ?」
「啓魄は何て言われてこうしているの? どんな命令?」
恋が問うと、抄基が声を詰まらせた。
「それは・・・答えられない。」
抄基の答えに、恋はくすくすと笑い出だす。
そして啓魄にあずけていた体をそっと離し、向き直る。
「理由なんて聞いていないんでしょう? そして」
抄基が驚いたように動きを止める。
「私に心当たりを聞く事が命令の内容だったんじゃないの?」
恋は驚いている抄基を見てまたくすりと笑った。
恋には一つの心当たりがあった。
樟静をも巻き込むほどのことはそれ以外には考えられないからほぼ確定的だ。
そして、その内容は大変内密なものでいくら歳長といえど、情報を与えられるはずがない。
恋が真っ直ぐ抄基を見ていると、抄基は舌打ちして歩き出す。
恋は後を追って話し掛ける。
「啓魄、これからどうするの?」
抄基は苛立ち気味に答える。
「お前を指定された部屋に連れて行く。
ちゃんと付いて来いよ。
じゃなきゃどうなっても知らねぇ。」
早足で歩く抄基になんとかついてもう一度問い掛ける。
「ねぇ、何て言われてこうしているの?」
「・・・さっき恋がだ言った通りだ。
だが、理由は聞いてない。
ただ、恋を此処まで連れてきて圭を牢に入れる現場を見せた後、
心当たりを聞いて
指定の部屋に連れて行くように言われただけだ。」
予想に反してすらすらと話す抄基に恋は少し驚いた。
「そんなこと私に言ってもいいの?」
「心当たりを聞いて恋が特に何も示さなかったら話してもいいと言われている。」
「そう・・・。」
黙り込もうとして恋は突然樟静のことを思い出した。
「ねぇ、じゃあ樟静は?このこと知っているの?」
歩き続けていた抄基の足が止まる。
「・・・いや、知らないはずだ。
さっきお前のせいだっていったろ?
今回のことに俺は詮索を入れることは許されていないしするつもりもない。
これに何か意図があったとしても、おそらく恋の問題だ。
だが、それに圭を巻き込むことは・・・良くないだろ?」
「樟静はなんていわれてああしているの?」
「それは聞いていない。
だがあの様子だと・・・まぁただ事じゃないだろうな。」
恋が息を詰まらせる。
優しすぎるほど優しい樟静。
きっと私が何かされると思って今の胸を痛めている。
様子を伺う抄基に恋は真っ直ぐな目を向けて言った。
「・・・急ごう。その指定されている部屋へ早く連れて行って」
部屋に着くと、抄基はだまって扉を開けた。
扉の向こうに白い壁が見える。
抄基は一度恋に目をやると、静かに元きた道を戻っていった。
恋はゆっくりと部屋に入っていく。
心当たりの人物を探して。
「・・・只今参りました、朱臣恋です。」
「・・・ようこそ。」
しかし聞こえてきたのは予想外の人物の声。
「・・・焔・・・李?」
恋の目の前に現れたのは刑執の執行長:仇珪 焔李。
初めて刑執に行ったときと同じ台詞だが、顔は酷く暗い。
「なっどうして焔李が?」
「どうして・・・本当に分からないのか?」
恋の心臓がどくんと波打つ。
なんとか平静を装って応える。
「・・・分からないです。
どうしてこんなことをしているんですか。
啓魄や・・・樟静を巻き込んで。
刑執らしくありません。」
冷静にあくまで静かに恋が言うと、焔李は黙って恋の方へ近づいた。
「圭 樟静の様子で分かっただろ?
わざわざ分かりやすいように圭にあのことを教えてやったんだ。」
恋の目が見開かれる。
「樟静に・・・あれを教えた・・・?嘘・・・。」
「やっぱりわかってんじゃねぇか。」
恋は黙りこんでうつむいた。
焔李は笑みを浮かべて恋の腕を強く掴んだ。
「っ・・・何するんですか。」
「何って・・・一つしかないだろう?」
「情報を話させるつもりですか。
私は何も言う事なんてありません。
何されても何も言いません。」
「ったく・・・何のために圭をああしているか分かっているのか?」
「っ・・・!!
・・・どうせ私が微雅にいる限り人質なんて余るほどいるとでも言いたいんでしょ。」
「そこまで読み取れれば十分だ。
あんなふうにした方が人質がいるんだと理解しやすいだろ?
本当は抄基でも良かったが、あれは一応歳長の仕事があるからな。」
「・・・樟静をあそこから出してください。」
「微雅にいる限り人質であることには変わりないが?」
「っ・・・それでも、早く・・・安心させてあげて・・・。」
恋が言うと、焔李はこっそり笑って恋らしいな小さく呟いた。
恋が不審に思って焔李を見ると、また真面目な顔に戻っていた。
ただ、先ほどまでより少し悲しそうな。
「・・・まぁそう言うんなら、離してやってもいいが。」
そう言うと、焔李は何かに向かって圭を解放するように指示した。
恋が焔李を黙ってみていると、さて、というように恋に向き直って改めて強く腕を掴む。
「これで満足か?」
「・・・安心させてといったんだけど。」
「そう心配するな。さっきは例のことを圭に教えたと言ったが
そう不用意に外に出していい情報じゃない。
理由は言えないが朱臣恋を動かすためだ・・・っといっただけだ。」
焔李の言葉を聞いて恋は安心したように肩を落とした。
それを見て焔李の顔に冷たい影が落ちる。
「安心したか?でも・・・。」
恋の腕をを掴んでいる手に力を込める。
恋は急な力に、恋は眉をひそめた。
「ここからが本番・・・だろ?」
笑いを含んだ言葉を聞いて恋は静かに瞼を閉じた。
目を閉じてしばらくしても焔李の動く気配はない。
焔李の動く気配……?
いや
(人の気配が、ない)
身体も先ほどまでとは違い、何か柔らかいものに包まれる感覚がある。
恐る恐る目を開ける。
どこかで見た景色。
いや、いつも見慣れた。
(ここは……私の部屋?)
見えるのは見慣れた自室の天井。
ゆっくりと起き上がりあたりを見回す。
いつもと変わらぬ部屋。
違うといえば、濡れ布巾と水桶が用意されている事くらいか。
(もしかして……)
スー
戸が開かれ眩しい程の光が部屋に入ってくる。
「恋さん! もう大丈夫なんですか?」
嬉しそうな樟静の顔。
そこでようやく、自分が夢を見ていたことに気づいた。
(なんて現実味のある……)
私が黙っていると、樟静の心配そうな顔が近づいてきた。
頭を振って笑顔で答える。
「大丈夫だよ」
樟静も笑顔に戻る。
「そうですか。良かったです。心配したんですよ」
笑いかけてくる樟静を見ながら私は思う。
夢だった。
けれど、それは遠くない現実かもしれない。
もしできるのなら、誰も巻き込まないで終って欲しい。
この樟静の笑顔を奪うなんて許さない。
私のせいで誰かが悲しむなんて許せない。
だから、終らせるのなら、どうか一瞬で……。